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2009年6月の12件の記事

2009年6月30日 (火)

微さやかな旅 難波駅から '090630

週末に出張が終わった時など、そのまま何処かに行きたくなる。先日関西への出張が金曜の夜に終わった際に、ボクはどこかに行く訳ではなく、途中愛知県の実家に寄ることにした。

近鉄特急「アーバンライナー」は、地下の近鉄難波駅から出る。阿波座駅から地下鉄千日前線でなんば駅に着きB3FからエスカレーターでB2Fに上がり右奥に進むと、近鉄難波駅の切符売場があった。19:00発のアーバンライナーに乗りたかったが、わずかに間に合わなかった。19:30発の特急もあるが、こちらは途中に大和八木、名張、白子、四日市、桑名などの主要駅にも停まり、所要時間は141分。20:00発のアーバンライナーは、津駅に停まるものの129分。12分違う。明るいうちなら途中駅の乗降の風情を感じるのもなかなかの趣向だが、出張疲れの身にはノンストップに近いアーバンライナーが心地よい。しかも20:00までの僅かな時間を、数年ぶりの難波をちょっぴり楽しみたい。沈滞著しいとの噂は本当なのか?猥雑な大阪は顕在なのか?列車内の夕食も見つけたい。近鉄の窓口で20:00発のアーバンライナーのチケットを購入した。

すんません、現金だけなんですわ」と駅員の声。

「?」・・・クレジットカードを差し出したボクは一瞬思考停止に。そうなのだ、近鉄の窓口はまだカード対応出来ていなかったのだ。この事態は何だ?数千円は持ち歩いていたのでホッとしたが、東京では日常的に1000円以上の買い物で現金を使うことなどない。近鉄のこの前時代的な状態に少々びっくりしたが、この駅員のせいではない。もう少し早い時間なら隣の近ツー(近畿日本ツーリスト)で購入したらカードは使えただろうし。

乗車券・難波-名古屋間\2,300、特急券・\1,850=合計\4,150也。これがJR東海ののぞみだったら、乗車券・大阪-名古屋間\3,260、特急券・新大阪-名古屋・自由席\2,410=合計\5,670になり、差額は\1,520になる。もちろん、JR東海・のぞみと近鉄・アーバンライナーでは、大阪-新大阪間の在来線利用の乗り換えを考えても所要時間に倍の開きがあり(※1.)、急ぐ場合は選択は自ずと「のぞみ」になるのは明白。しかし、今日は久しぶりの出張の帰り。今夜中に実家に帰って親の顔を見、風呂に入って寝るだけだ。急ぐ旅ではない。しかも、新幹線にはこれまでうんざりするくらい乗ったのだ。夜の特急で車窓は見えないまでも、たまには近鉄の旅もいいではないか。たぶん青山トンネル辺りは深い眠りに入っているだろうが・・・

エスカレーターでB1Fに上がると、そこは難波駅の地下街が広がっていた。ウィークエンドの会社帰りの人々なのか、大勢の人々が往来している。電車の中で食べる夕食を探しに地下街を南海難波駅方面へ向かう。キャスターを引いているので通行人にあたりそうになる。そしてNANBAなんなんの飲食街へ。喫茶店やそば屋やラーメン屋はあるが、持ち帰り的なお店はない。う~ん、一番奥まで進み、無印良品の入ったビルに入る。地下は無印の食堂になっていてそこそこ流行っていた。洒落た学食のような風情だ。地上に出て街を進もう。地上に出るとそこはもう雑踏の中。パチンコ屋や飲食店の渦、難波中2の交差点を右折して南海のガードをくぐる。ミナミは健在ではないか。左の路地の奥に餃子の王将の看板が見えた。そうだここは王将で満腹にして特急の中は酒にするか。

ごめん、電車出ちゃうからオーダー流して」「あ、どうもすんません

王将のカウンターに座って10分・・・大混雑の店ではなかなか餃子は来なかった。二度焼き上がる餃子たちを見たが、それはボクより前の注文の品で、ボクの餃子は今から焼きに入るところのようだ。でももう手遅れだ。お店や店員が悪いのではない。絶え間なく客は出入りし、店員たちは必死に料理を作り客に出していて、その間も電話の注文を聞き、帰り客の清算をしている。ボクの来店のタイミングが悪かったのだ。たぶん一日で一番混む時間に来たのだ。すまなそうな顔の店員に愛想笑いを送って店を出た。

まずい、あと20分で特急が出る。ボクは少々焦りながら高速道路下を難波中の交差点へ。その角にとんぺい焼きの店があった。2種類を頼んで「ちょっとそこのファミマで酒買ってくるからその間作ってて」「ハ~イ」と声を交わしてファミマにダッシュ。キリン・一番搾り500mlとおーいお茶500ml、そしてアイスクリームを購入して先ほどのとんぺい焼き屋へ。若い男女が汗流しながら焼いている。さっき作り始めていた十数枚が焼き上がりつつある。焼きそば風とお好み焼き風をそれぞれ1枚づつ購入。8分前。スーツ姿でとんぺい焼きとビールのビニール袋とキャスターを転がして早足で進むネクタイなしのサラリーマンは、道行く人にはかなり滑稽に見えただろう。

道を渡って高島屋の中へ、そしてエスカレーターを下って地下街へ。地下の人波はさっきより増えている。地下鉄御堂筋線の改札前を素通りして近鉄へ向かう。あと3分。近鉄の改札があった!

改札を通ってまたエスカレーターを下る。難波駅は最近阪神線と結ばれ神戸方面への客も多いのか混雑している。ホームにはすでにアーバンライナーが。先頭から1号車らしい。ボクの席は2号車の一番端だ。前に向かい、1号車側の扉に行って車内に入る。?席がない???ボクはそこでびっくりしたのだが、アーバンライナーの座席は、号車の並びとは逆なのだ。1号車はデラックスカーだからわからないが、レギュラー車の2号車の先頭方向から席番号が始まっているものだと思いこんでいたら、そこはお尻だった。そう、ボクの席は3号車側だったのだ(※2.)。一旦ホームに出て3号車側の扉に向い、車内へ。あった、ボクの席だ、3号車側の壁の前、席との間にキャスターをねじ込んだ時、特急アーバンライナー名古屋行きは静かに走りだした。

※1.金曜の20時に大阪駅からJRで名古屋まで行くとすると、まず大阪駅20:02-[高槻行]-20:06新大阪駅20:17-[のぞみ140号]-21:09名古屋駅となり、所要時間は70分。同じ時間に難波駅から近鉄を利用すると、難波駅20:00-[アーバンライナー20号]-22:09近鉄名古屋駅となり、所要時間は130分。

※2.これは推測だが、近鉄の特急は大阪に向けた形が定型で、だからアーバンライナーであれば名古屋から難波に行く場合、号車と席順が同じ方向になるのだろう。

2009年6月29日 (月)

読書録 宮田親平「ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」 '090629

現代を生きるボクらの周りには、様々な機器や道具がボクらの生活を支えてくれている。その一つひとつには、多くの先人の発明や発見、そして工夫が集積されている。100年前のボクの実家にはたぶん電気は来ていなかっただろうし、ボクの生まれた40数年前にはまだカラーTVはなかった。そう、ボクの中学時代にはコンビニもなかったし、高校時代にはパソコン、大学時代には携帯電話もなかった。名も知らない科学者や研究者がコツコツと研究を積み重ね、たくさんの失敗を繰り返しながら貴重な発見をして、今日の便利な道具や機器となって使われているのだろう。そう、今このPCだって書いているブログだって、ほんの十年前にはなかったものだ。

科学史という世界がある。しかし科学はその全てが人類の幸せに貢献した訳ではない。かのアルフレッド・ノーベルが開発(※1)し事業化したダイナマイトは、氷河が削った岩盤むき出しの大地が広がるスウェーデンで鉄道や道路建設に貢献したが、戦争では破壊と殺戮を目的に大いに使用された。ジェット機も初めに飛んだのはナチスドイツの戦闘機としてのロンドン空爆だ。科学とはかくも哀しい運命も共にしているのだ。

フリッツ・ハーバーという科学者をボクはこの本を読むまで知らなかった。この朝日選書に収められた「毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」がなかったら、ボクはずっとハーバー(1868-1934)を知らずにいただろう。

まずボクの興味は、科学が飛躍的に発展した19世紀から20世紀にかけての欧州の時代背景だ。ベルリンの壁崩壊をその象徴として政治陣営の東西の区別が無くなって早20年近くが経つが、欧州ではこれまでの100年、劇的な変化があり、科学者はそんな激動の時代に様々な発明をしただ。そう云う意味では20世紀は“科学の世紀”と呼べるのかもしれない。

そしてさらに興味深いのは、民族意識と国家への帰属意識だ。(ボクが見るに)外見があれほど似ているにもかかわらず、小さな民族がそれぞれに独立国家を形成している欧州、そしてフランスやスペインのように中央集権をことさらに強調するあまり国内の地域主義を抑圧する。他者との違いを強調する力を反面国内には同化を求める。フランスのブルターニュやコルシカ、海外県の扱いや、スペインのバスクやガリシア、そしてカタロニアの扱いなどもなんだか滑稽だが、されどそれが国家なのだ。国家とは何とも曖昧でかつ魅力的な幻影のようなものなのだ。そして特に興味を引くのはユダヤ人(民族)だ。

北米移住やイスラエル建国まで、欧州に広く散住していたユダヤ人が、どう生きていたのか?それは一様ではないはずで、この本の主人公であるハーバーの人生も波乱だ。著者の宮田氏はこの書名の副題に「愛国心を裏切られた科学者」と記した。およそ科学と愛国心ほど、微妙なものはない。科学には本来国境はない。しかしその科学者には皆それぞれに故郷があり帰属意識もあるだろう。しかし、ユダヤ人であったハーバーはどうだったのか?宮田氏はその意識をハーバーの言葉で示す。

平和時には人類のために、戦争時には国家のために

このなんと矛盾に満ちて、かつ肯定せざるを得ない言葉の響きはなんだろう。

ユダヤ人であったハーバーが、ドイツ人たらんとして第一次大戦に馳せ参じる覚悟をし、“戦争を早期に終わらせるため”に毒ガスの開発と生産に心血を注ぎ、挙句軍服まで着こんで東西の前線で指揮を執ったのはなぜか?異教徒として蔑すまれ、職業や住居を限定され、卑しいものとして迫害されてきたユダヤ人の末裔がなぜ帝政ドイツを応援したのか?

ボクはこう思う。彼の育った幼少の頃(19世紀後半)の旧ドイツ地域は、まさに諸国割拠状態を脱してプロシアを中心としたドイツ民族運動の真っ最中だったのだ。有史以来初めてドイツ語を母語とする統一ドイツ国家が初めて生まれようとしていた訳だ(※2)。彼はこの時代に領土を持たないユダヤ人であるより、この誕生間もない「ドイツ」と云う国の国民となろうしたのではないか。そしてよりドイツ人になるためには、ドイツ人として戦争に勝つために己の科学力を捧げようとしたのではないか。

この本の詳細をここで記述しても何もならない。ただハーバーと云うヒトが、こうして物語りとなりえるのは、数々のエピソードと卓越した科学者魂である。母を知らない誕生、父との確執、ドイツ帝国の誕生、科学者としての格闘、そして「ハーバー・ボッシュのアンモニア合成法」の発明と毒ガスの開発と決行、その抗議としての妻クララの自栽・・・彼の半生の前半から中盤に至るその凄まじいドラマの連続。まさに欧州の歴史そのものではないか。

そしてまだドラマは続くが、その冴えたるものは、彼が開発した毒ガスが、彼を追放することになるナチスドイツにより、彼の出自であるユダヤ人を大量殺戮することになる皮肉。

多くのユダヤ系科学者がドイツを去ることになるナチスドイツによるユダヤ人排斥に、ヒトラーは「これからの百年、ドイツは物理も化学もなしにやって行こうではないか」と答えたというこの破綻した思想は何なのだ。ボクはこの言葉の狂気は「大東亜共栄圏」を唱えながら広くアジア太平洋地域を戦争に巻き込み、自国民を戦時体制下に置いた帝国主義日本の本質となんら変わりはないではないかと。

宮田氏はこの本で、ハーバーと日本の関係もじっくり掘り起こしている。興味深かったのは、星製薬創始者・星一との関係である。ボクが知っていたのは、彼が星薬科大学を創ったことと子息にSF作家の星新一氏がいることくらいで、今はなき星製薬とはどんな会社だったのかも、この本で知らされる。

ハーバー・ボッシュ法の発明により食糧増産に寄与し、かつカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所(現マックス・ブランク研究所)の所長として多くの科学者を育て、科学者として人類への貢献を高く評価され、かつノーベル化学賞にも選ばれたハーバーは、一方で毒ガスの開発者として戦争史にも刻まれている。ユダヤ人改宗プロテスタントとして、妻をも自殺に追い込んでさえ誰よりもドイツ人たらんとしたにも拘らず、そのドイツから追放されたハーバー。この人生の皮肉は何か?

ただ幽かな救いとすれば、多くの科学者を愛し、数多くの科学者に愛され、ナチスドイツの毒ガス室の悲劇を知らないうちに亡くなったこと、そして死後妻クララと共に同じ墓に眠っていることだろう。あの世と云うものがあるとすれば「ほら見なさい」と妻に叱責されているであろうハーバーが見えるようだ。狂気の科学者として語られるかもしれないが、まさしく愛すべきドイツ人であり、科学者の鏡でもあったと云えるのではないだろうか?

多くの科学者をボクは知らない。きっとハーバーの他にも数々の科学者がまだいるだろう。この「毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」を知ったことでボクはハーバーという特異な科学者の足跡に触れる恩恵を得た。科学史とは人類史なのだと改めて感じたひとときであった。

※1.ダイナマイトはノーベルが発見したのではなく、ソブレロが発明したニトログリセリンを工夫を重ねて実用化したそうだ

※2.フランク王国や神聖ローマ帝国をドイツ人統一国家と見る人もいるだろうが・・・

書名:毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者

著者:宮田親平

出版社:朝日新聞出版・朝日選書834

初版発行:2007年11月25日

余談:著者の宮田氏の本に最初に触れたのは、科学書ではなく路面電車の紀行である。氏は路面電車と地図(とプロ野球のパr・リーグ)の大ファンとして知られており、ボクも氏の「ヨーロッパ市電王国を行く(光人社)」、「トラムのある街(同)」を旅のバイブルとして愛読している。

2009年6月28日 (日)

ブログ考 自分史として '090628

05/06以来続いていた一日当たりのアクセス数がとうとう「10」を切った。

去年の5月末から始めたこのブログは、ほぼ13ヵ月が過ぎた。今日で約400日がたったと云う訳だ。この間、約200本のブログを気分のままに書いてきた。今年の5月のように毎日のように書いた月もあれば、半分も書かなかった月もある。誰かが覗いてくれるだろうか?という期待ももちろんあったが、それよりも日々の自分の行いや思いを記録するために書き続けていたと思う。読者を想定していないと云えば怒られるかもしれないが、敢えて自分のために着てきたと云える。

そう、ブログとは儚い自分史なのではないだろうか?

先にも書いたが、05/06以来続いていた一日当たりのアクセス数「10」を、06/24にとうとう下廻った。それもそうだろう。6月はまだ9本しか書いていないし、しかも今週は「そのまんま東」の「ミジン党総裁のイス要求」の記事を思わず書いただけだ。こんなに空かすかの投稿では多くのヒトに観てもらうことはできないのは明らかだ。

今日現在での累積アクセス数は3400余り。このうち自分が観た回数が2、,300回はあるだろうが、それでも3,000アクセス以上は知らない誰かが訪れてくれた訳で、これはもうありがたいことだ。

ブログ開始日から累計アクセス数を割ると、一日平均が出てくるが、今日の段階でこの数字は約「8.5」。しかし、05/05までの数字は「4」程度だった。05/07にGW中に観たTVドラマの再放送「小さな駅で降りる」を書いて一気に一日のアクセスが「99」に跳ね上がった。そして05/11にTVバラエティ「行列が出来る法律相談所」に岡田奈々が登場したことを書いて一気に「160」になり、最高数は05/19の「179」だった。読まれていることはとてもうれしいことで、そのよせいをかって5月は合計28本も掲載した。

ブログを書くようになって、様々な思いが出来た。しかしアクセス数に一喜一憂せず、マイペースで書いて行きたい。また本を読むにしろ、映画を観るにしろ、ブログを書くためにする、という行為であるべきではないだろう。全ての行動の後に結果的にブログがあれば、それが自分史になるだろうと思いたい。

2009年6月24日 (水)

政治考 気に入った!そのまんま東 '090624

あえて「のそのまんま東」と呼ばせてもらう。もともと東国原と呼ぶのは好きじゃない。しかし、昨日奴は「衆議院に出馬するなら、ミジン党の総裁の座を約束してくれ」と云ったらしい。ミジン党の強面・古賀選対委員長もかなり引いたのではないか?しかし偉い!気に入った!それでこそ淫行&講談社襲撃のそのまんま東だ!

いい加減な政治して、人気がないとなるとすぐタレントに頼るアホ政党・ミジン党。さすがのそのまんま東も「困ったときだけ来やがって」と腹が立ったのか?

これを自民党の世襲アホ爺や利権ボケ爺たちは怒っているらしい。ざまぁ見ろだ。人気のタレント崩れに頼って挨拶に行ったのはどっちだ。

小泉の嘘付き選挙(※ )で2/3の独占状態を取ってから、これ幸いにと議論もせずに好き放題の強行採決ばかりやって選挙もせずにのほほんと胡坐をかいてきたから、タレント淫行崩れにコケにされるんだ。

そのまんま東はイヤらしいし、顔も気色悪いし嫌いだったけど、いやぁ、初めて面白いと思ったぞ。ミジン党は、プライドも政治センスもない、国民の税金をしゃぶっているだけの糞みたいな党なんだから、そのまんま東に足蹴にされて当然だ。

でもそもそも自分たちの金儲けと名誉欲のためだけに政治家してるわけだから、この際ミジン党はそのまんま東をトップにして選挙すればいいのに。小泉の写真集買って、暴君石原を相変わらず指示してるボケ国民はいっぱいいるからきっと勝てると思うけどなぁ。

いやぁ面白い!ミジン党って、ほんとさもしいねぇ~

※ 郵政民営化で何かよくなりましたか?行革、進みましたか?ミジン党、ぶっ壊れましたか?

追伸:最近妙に忙しくブログを疎かにしていましたが、あんまり面白いネタだったので思わず書けましたっ!

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2009年6月16日 (火)

政治考 千葉県民を笑えない都民 '090616

森田健作=鈴木栄治が国会議員になった時はかなり笑ったのだが、千葉県知事になるに及んで、急に笑えなくなったのはボクだけだろうか?衆議院議員なら1/480、タレント崩れが甲高い声を上げたって聞こえやしないが、知事は違う。中身はなくとも声はあげられる。知事は都道府県にひとり。彼が話してる時は周りは基本的に声を出せない。

しかし、“青春の巨匠”などといわばバカにされていてもピンとこないアホさ加減には笑っていられたが、いざ政治家になろうとし出した時に潰しておけばよかった。剣道の段位もないくせに自称二段と云い張って40年近くになるそうだが、ずっとそれを云い続けてきた彼はまさにアホだ。自分が云い続けるうちに自分で自分の嘘を疑わなくなったのか?

剣道の段位もなかったなんて!

また“完全無所属”と云って実はミジン党の東京支部の支部長をしていたとか、日本人以外のヒトからの献金を受け入れて白を切ってる所など、まさにミジン党のオヤブンがKYの代表・山崎拓なわけだ。親分子分で全く制度を理解していない。そもそも理解する頭脳も誠意もないのだろう。これからしばらくあんなアホが千葉で吠え続けるかと思うと、ほんとに千葉県民が哀れだ。せめて剣道着に面でも付けて県議会で答弁するくらいの面白さでいて欲しいものだ。

一度公職選挙法にも連座しそうになって、お金でごまかしている。

その時は秘書が逮捕されたのに、奴は50万円を支払い略式起訴で済ましたようだ。それで連座制が回避できたのははなはだ疑問。検察はミジン党にはかなり甘い。しかも奴はかつて埼玉知事選にも立候補しようとしたらしい。目立ちたがり屋はどこでもいいんだな。

しかししかし、千葉県民を笑えないのは東京都民だ。「知事なんて週に三日くらいやればいいんだ」と偉そうにのたまって、まるで「知事職が余技」程度と吠えていた作家知事は、実は芸術家崩れの四男に都の仕事を横流ししたり、都の予算で溺愛息子の絵を購入したり、欧州旅行に税金でお小遣いあげたり・・・、まさに金日成並みの親バカぶりを発揮。また信金や信組がどの県よりも豊富になるにも拘わらず「中小企業が大変だ」などと云いながら新銀行東京などと妙な名前の金融機関を作り、バカな融資先に騙されたり横流ししたりで、今では結局出資金を含めれば二千億円以上の負債を抱えている。なのに追及されても自分の責任とは思わない。また自分の失政から目を背けたいのか、すでに福岡が表明していたオリンピックに後出しで立候補し、ちゃっかり横取り。しかも国が応援しないと怒りだす始末。自分で勝手に始めておいて結局国に金をせびる。最低の男が東京都の知事なのである。嗚呼・・・

森田健作が任期を全うするとは到底思えないが、この先しばらくは剣道と政治資金の出所と無所属の嘘をうやむやにしなながら、おかしな言動を繰り返すのは予想できる。しかし東京都民はそれも笑えない。きっとその前に都の財政は破綻するだろう。それでも作家知事は「わたしは悪くなかった」「知らなかった」と開き直り逃げるだろう。結局弟の七光りで生きてきた野郎なのだ。

東京都が破産団体になる時は近い。オリンピックどころではないはずだ。

国民はアホな自公政権の借金を抱え、この上東京都民はさらに要らない銀行と五輪の借金を抱えることになる。いっそ鈴木栄治と作家知事を北朝鮮辺りに捨てて来れないだろうか?もうあんな奴、いらないよ。

ボクは千葉県民を笑えない都民。全国の皆さん、笑ってやってください。

そして次の衆議院選で、作家知事のバカ息子がまた当選するようなら、まさに東京都は北朝鮮とほぼ同じと笑われるだろう。

2009年6月15日 (月)

映画録 REDACTED / リダクテッド 真実の価値 '090615

ブライアン・デ・パルマ監督の、と云うよりも、USの世襲坊主・ブッシュがいちゃもんをつけて始めたタダレタ戦争・イラン侵攻の内幕を描いた「REDACTED / リダクテッド 真実の価値」を観た。

あえて「編集する」とタイトルした監督の意図は何だろう。「伝えられる情報はすべて手が加えられている」という暗喩だろうか?

信じるな、自分の目で見ろ。 』 ・・・チラシの宣伝コピー・・・

国の方針の成否などを考えたこともなく、ただ自ら生活のために従軍し、他国を侵略する。その地域の文化も歴史も習慣も理解しようともせず、ただじりじりと照りつける太陽の下、ヘルメットに分厚い手袋や防護服に身を包み、蒸し風呂の中のように汗を流す。銃を抱え、住民を見張り、車から住民を引きづりだし両手を挙げさせ、車の中の荷物をかき出し、住民が理解できない言葉で尋問を呪文のように繰り返す。そこには“コミュニケーション”の欠片もない。

この映画に描き出された風景は、多分かなりの部分で本当のことだろう。そこには、世界平和を背負うなどという志など皆無、国を守るという信念など初めから存在しない。そこにはただただ帰国への待望=仕事の終りと住民への蔑視があるのみ。その余りの救いのなさに観客は唖然とするだけだ。

そして、この映画で描かれているエピソードの一つひとつは、次第に壮大な虚無と化して行く。どの国がどんな理由で侵略され、どう政権が倒され、誰が逮捕され、何人の女たちが犯され、どの家族が殺され、どの建物が壊されても、そして兵士が殺されようとも観客はただただそれを眺めるだけ。
映画の中の若い兵隊たちの罵詈雑言も、嘆き哀しむ住民たちの声も、兵士の爆死も、ただただとるに足らない事実になって消化され忘れられて行く。

かつて初めて道具を握って敵に打ち下ろし“権力”を知った猿は、今も相変わらず殺し合っているだけだったと云う現実。
ただ違うのが、殺せ、犯せと云う指示は、戦場から遠く離れた街のクーラーが程よく効いた部屋で、ブランド物の三つ揃いスーツを纏い、税金の使い道と懐への入れ具合と自らの名誉欲だけが大切な“唾棄すべき奴ら”によって、まるでチェス盤を闘わせる様に遠まわしな美辞麗句によってひねり出されているということ。
そして、それをこれっぽっちも信じてもいないくせに、ただ金儲けのためだけに「同盟国」が戦場にした異国に、これまた志ではなく生活のために派遣される兵隊がいて、やはりそこには住民の税金が湯水のように費やされて行く。

喜びも感動も楽しみも同情も何もない、ただ観客にこの世界の空しい現実を突きつける映画。でも観終わった観客の大半は戦場から遠く離れて、今日の夕飯のことや子供の進学のことを思い、騙されたり殺されたりするニュースを観たりするんだろう。明日殺される側に居るかもしれない現実の中で。

もしかすると、デパルマはUS国民やUSの同盟国の住民に「あの国で我々はこんなことをしているんだよ」って告発する映画を作ったのかもしれない。けど、ボクだけじゃなくて、「もう知ってるよ」ってみんなが改めて空しく確認する映画になっている。ボクらはあの国をみんなで苛めているってこと。

誰かがイラン侵攻の真実を告発したとしても、きっと「それは捏造(=編集)された情報に過ぎない」と反論され、非難されるだけなのだろう。

国際政治的イジメを映画化したと云う意味で、これはとんでもない怪作だと思う。デパルマ、この世の中に生きていてボクも哀しいよ。

日本の自衛隊がいたサマワはまったく戦闘がなく、だから軍隊が駐留する必要性が低く、かつ地元の要請もなかった。自衛隊はサマワの住民に多額の賃貸料を払って駐留させてもらっていた、と云う事実も、悲しい偽善の一つに過ぎないのか。

土曜日の昼、新文芸坐は今日もそこそこの入り。

2009年6月14日 (日)

政治考 平成のトンデモ議員・杉村くん不出馬 '090614

少し前の話になるけれど、あのミジン党の杉村太蔵くんが、次回の衆議院選挙に出ないそうだ。鼻くそほじくる程度の話だが、あいつ、やっぱりそんな奴なんなぁ~と。

まず杉村くんの身分だが、2005年衆議院選挙の比例代表南関東ブロックでの当選議員だ。郵政民営化=私物化ダマクラカシ選挙(結局郵政民営化ってなんだったの?)の小泉-国民痴ほう症的勝利により棚ボタで当選したわけで、そもそも地元意識なんてないに等しい。ほかの小泉チルドレンと呼ばれた“行列に並んだもん勝ち”的浅墓な奴らと同じで、地元に貢献どころか、国家のために働こうなんて思いはこれっぽっちもない人々。増添元夫人の片山さつきや株大好きの佐藤ゆかり、食べる前にゲンナリ顔のホントに料理してるの?な藤野真紀子らと同じ、自分のキャリアアップのためだけに国会議員になった奴らの一番どん尻が杉村くんなのだ。

杉村くんは関東で出馬させてくれそうな選挙区がないことから、出身の北海道でしかも都市住民=浮動票が多いだろうと踏んだ札幌の北海道1区から出馬しようとしていた。しかし、そこはすでに有力候補者がミジン党公認で出ることが決まっていたからこれまた万事休す(しかし「ヨサコイソーラン祭り」の親玉もミジン党から出るあたり、なんだか悲しい野郎だね)。

最初は元気よく吠えていた。

有力候補者が居たのに「いくら若くても、私は現職です。現職には現職の強みがあります。大臣に会おうと思えば会えるんです」などと、内弁慶で空虚なコメントを出したり(それじゃぁ地元が応援してくれないだろう)、公認の宛てが無さそうになると「公認するかしないかは党の判断ですが、選挙に出るか出ないかは私の判断です。私は誰が何と言おうと北海道1区から出馬します」と開き直ったのか自閉したのか、よくわからない発言を連発。だったら札幌で政治活動したのかと思えばそんなの全然やってなかったらしく・・・

挙句今回の不出馬発表。

無所属で出馬しても、大変難しい結果になることは間違いない。民主党を利するだけだ」などと、これまた住民無視のコメントで負け惜しみした。

杉村くんの問題点は、何も政治活動をまじめにやってなかったことや、「早く料亭に行きたい」「BMWに乗りたい」などと無邪気にはしゃいだことだけではない。その根本的な問題として、「国民のために政治家になって働く」という基本的な意思がなく、単に「ミジン党の中で暮らしてゆけば大丈夫」という、自己保身しかないことではないだろうか?そのくせ次期衆議院選挙で北海道1区から出れば「公認のお祭り候補と自分で自民党票を分け合ってしまう」などと僭越な心配=計算までする狡猾さ。あんたが出ても票は割れなかったと思うなぁ。

「私は誰が何と言おうと北海道1区から出馬します」とまで云った気概はなんだったのか?現国会議員として恥ずかしくないのだろうか?

まぁ、師匠が「ミジン党をぶっ潰す」といって総裁になっておきながら息子に世襲させる変人や、ITバブルで盛り上がった目立ちたがり屋を「私の弟です、息子です」と云って盛りたてたいつも何が何だかわからないジジイだったりするので、その弟子の程度も知れていた訳だが・・・

まぁそんな奴が昔いたね、という一発ギャグ芸人みたいに思いだす日もいつか来るのかなぁ。

しかし、あの麻生のダミ声坊やはホント解散しないね。度胸ないんだね。カッコばっかりつけてさ。やなジジイ。

2009年6月 9日 (火)

失業の風景 ある中年ふたりの失業 '090609

ボクは今40歳代半ばで、人生の後半の二十年以上をサラリーマンとして働いてきた。この間、今年の4月までの10ヵ月間とそれ以前にした転職の合間の4ヵ月間(2ヵ月を二回)の計14ヵ月の無職期間を除けば、ずっとサラリーマンとして会社から給料をもらい続けて生活してきた。何度か転職をしたけれど、運よくつながって働き続けて来れたものだと思う。転職も一度を除いて全て自分の意志で会社を辞めて、次の会社を探した。全て会社を辞めると宣言してから次の会社を探したという、甚だスマートでない転職だった。

昨夏の退職は心身ともにかなり参ってしまい、会社から「辞めて欲しい」と云われることを待っていたくらいだった(最後はかなりもめたけど)。失業手当(給付)をもらってしばらく養生しようという気持ちになっていて、会社を辞める時はもうまさに気分は“エスケープ”。逃げるように職場を去った形だ。あの会社に残ることは、人生にとって何のメリットもないと思えた。年内に次の職場が見つかればいいかな、いや失業給付期間いっぱい休んでしまおうか、と思うくらいの甘い気持ちだった。しかし、季節が秋に染まるころ、サブプライム破綻の影響深化とリーマン・ブラザース倒産の心理的ダメージから、「100年に一度の未曽有の不況(そんなこと誰がわかるのかね?)」などダミ声お坊ちゃま首相が喜んで解散しない理由で求人市場は笑えないほど急速に衰退し、ボクの再就職計画は一気に吹き飛んでしまった。

そんなバカなボクにも同年代の友人は少しはいる。

友人の中には学校を出て以来ずっと同じ会社に勤め続けている者もいる。ひとつの会社にそんなに長く居られるなんてと、ボクは羨ましくさえ思う。また転職経験のあるものも多い。特に手に職を持ったヒト、また比較的小さな会社に勤めている者に転職経験者が多いように感じられる。まぁ、小さな会社にも勤続十何年ってヒトもいるので、転職は所属会社の大小というよりは、性格の影響も大きいのかもしれない。社内や得意先の環境や運もあるだろう。

大学は違うがクラブ活動を通じて学生時代から知っている、あるデザイナーの友人がいる。彼が最近失業した。

デザイナーとして広告制作事務所を何軒か転職していた彼は、ここ数年はあるメーカー系のハウス・エージェンシーに所属し、TVや雑誌にも頻繁に登場する誰もが一度は目にしたことのあるメジャーな製品の広告の担当者として活躍していた。そんな彼が昨年、東京の事務所所属のまま、「長期出張」という形で親会社の本社がある街に赴任した。その親会社にとっては東京は出先。広告を出すメディアの大半が東京にあることから、宣伝セクションが東京に置かれていたという訳で、この世界ではよくある話。彼はその街でウィークリーマンションを借りてもらい、働きだした。

最初は3ヵ月の約束だったんだ、と彼は云っていた。

仕事内容に変わりはなく、本社の担当者と直接話し合う環境の中で仕事は推移したが、次第に彼と同じように関連会社の担当者たちがその街に集まってきた。その間、彼への約束は6ヵ月に延長されて行った。関連会社の他のスタッフの中には、各地の事務所を整理してほとんどの社員をその本社のある街に移したところもあった。事務所を畳んだ各地では現地採用の社員を解雇しているところも多いようだった。そしてこの春、彼には東京に戻る話がそもそもなくなり、「長期出張」は「現地で住んで欲しい」にすり替わった。長期出張という形では宿泊費と一部の食費、そして月に一度の帰省手当(彼の場合は東京に戻る費用)が支給されていたが、現地雇用化でそれも無くなり、しかも給与の削減も言い渡されたようだ。

親会社のメーカーとしては、この「転勤辞令」は業績悪化による当然の措置だったと思っただろう。多くの社員が転勤で日本全国はもちろん、海外の工場にも赴任していた。しかし、永年デザイナーの一線で働いてきた彼には、この新たな待遇を受け入れられなかった。給与は下がり、家も知り合いもいない街で暮せというのは、彼の選択肢にはなかったのだ。しかも、彼は東京生まれの東京で働くのが大好き男だったのだ。またそもそも期間を限定されての転勤だったのを延長の末に反故にされたという“約束違反”に耐えられなかったのだろう。このまま居ても待遇は良くならないかもしれない。いやそもそもこの街はボクの選択した街ではない・・・

彼は知り合いの広告制作会社をせっせと当り、ようやくひとつの事務所に行きついた。そこは今いるハウス・エージェンシーの前の事務所時代からの付き合いがあるところで、彼は転職後も仕事を紹介した経緯があった。「これで東京に帰ることが出来る」とホッとし会社に辞表を提出した(これはそもそも罠だったのかもしれない)。

しかし、会社を辞める直前に事態は急転した。

転職先の制作事務所から「業績が急速に悪化して、会社に迎えられる余裕がなくなった。今いる職員の何人かも辞めてもらうことになった」と。「採用」を告げられてから一ヵ月も経っていないうちの転回だった。

「甘かったかな」・・・彼は今必死に職場を探しているようだ。

実はボクも去年の秋に「内定取消」にあった中年だ。「じゃぁひとまず顔合わせも兼ねて3日くらいバイトで来てくれるかな?」と面接で意気投合した故郷のある会社の社長に云われ、初日には「採用予定の○□さんだ」と紹介された。忙しいので結局延長してその事務所で五日働いたのだった。4日目まで順調な雰囲気で、その日の夕方社長と専務と会談して「じゃぁ明日、入社日と給料を決めようか」という話になった。そして翌日・・・

社長と専務の顔が冴えない。何やらおかしな雰囲気を感じた。与えられた仕事は昼過ぎには完了して、後はボクの就職のことだけが残されていた。「ちょっと話そうか」と社長に呼ばれてビルの1階にある喫茶店に連れて行かれた。

「昨日、ひとつ大きなクライアントに契約延長はないと告げられた。小さな会社としては結構なウェートを占める業務だった。社員を切るわけにはいかない。申し訳ないがキミの採用は保留させてくれ」・・・

その後半年が経過したが、その「保留」について、何の連絡もない。

正直、東京を離れて故郷に戻ることに抵抗はそれほどなかった。両親も老いた今、近い将来、介護も予想される訳で、40歳代で故郷に職を移すことは正しい判断ではないかと思えたし、正直東京での暮らしにはほとほと疲れていた。大学進学以来、すでに四半世紀を東京で過ごして来たのに、そして住居まで購入しているのに、今だこの東京になじめない。どこに行ってもヒト混み、満員電車、騒音、行列を好み、東京は全ての中心と思ってはばからない多くのヒトびと、理不尽な犯罪の増加、指定日以外に捨てられる分別されていないゴミ・・・学生の頃は自分のために便利に作られている機械のように感じていた東京に、今は無理して暮らしているように感じられ、“負担を強いる街”に代わってしまっていた。そんな東京の街も、いやいや暮らすボクを必要としていないだろう、と。

唯一の懸念は、妻とは離れて暮らすだったが、車で4,5時間、新幹線を利用すればドアtoドアで4時間を切る距離だ。横浜に行ったって千葉や大宮にだって片道二時間近くかかる訳なのだからと思い、故郷でも再スタートを期していたのだが・・・

先日急に「明日の夜、呑まない?」とデザイナーの彼から誘いが来た。通い始めたばかりの会社を出る時間が毎夜21時を廻っていたし、その翌日は打合せ先に直行する日で、できれば呑み会はパスしたい夜だったが、彼の誘いだったからすぐに承諾した。ボクも失業中は多くの友人と時間を共有することで癒されたと自覚していたから、彼が望むことは受け入れようと思った。ボクの番だと。

しかし、翌日「休養したい。呑みは延期にして欲しい」とのメールが届く。「自分で誘っておいてそれはないだろう」と一瞬思ったがすぐに打ち消した。就職に有利なヒトとの吞み会でも入ったに違いない。ボクは話を聞くことしかできないし、励ますような適切な言葉も口にする自信がない。

同じ「内定取消」を受けた中年同士、今はわだかまりなど不要だ。死なないように生きなければ。いや、死んで亡くなるまでは、それが消極的であっても、ささやかに生きて行かなければと、確かめるように思うのだった。

彼の再就職が首尾よく進むことと、自らの職場での安泰を祈った夜だった。

2009年6月 8日 (月)

音楽録 中島みゆき「誕生」 '090608

文句なしに中島みゆきの音楽が好きだ。ひとりになると必ずと云っていいくらい彼女の唄を聴いている。CDはほぼ持っている。好きな曲は数えきれない。だから特にどれが好きと云うことが出来ない。

唄が好きだからと云って、その人間全てが好きか、というとどうか。知り合いでもないし、会ったこともないから、もちろん挨拶したこともない。あるミュージシャンの全てが好きだ、なんて云うこと自体おかしなことだと思う。彼女の出ていたオールナイトニッポンもほとんど聞いたことがなかった。ちょうど高校生の頃で深夜ラジオが大好きだったのに、彼女の番組は避けて聞かなかった。ボクは今もそうだが、余り賑やかだったり明るいラジオ番組は聞かない。だいたいひとりで聞いてるのにラジオの向こうで大騒ぎや妙にハイなのは調子が狂う。中島みゆきの番組が突拍子もなくネあかだったかと云えばそうとは思わないが、彼女の生の声はそれほど好きになれなかった。どちらかと云えば、ユーミンの「サウンドアドベンチャー」の方が自然に聴けたのだった(自分の曲しかかけないのに厭味じゃなかった)。中島みゆきの音楽の方が好きだったのに、なぜだろう?曲とトークのギャップが中島みゆきの方が大きかったからだろうか・・・

コンサートにも行かない。だから中島みゆきの「夜会」にも行ったこともないし、DVDを観たこともない。化粧品や年賀はがきのCMに出ている彼女を観ても感想はない。あぁまだまだ随分若々しいのだなぁと思ったり。きっとシンガーは唄ってて欲しいのだ、という固定観念に縛られているのかもしれない。でもボクはそれでいいのだ。そう云うファンもいてイイと思っている。でもいつか彼女のコンサートに行きたいとは思っている。

ただたまには生きている彼女を観たいとは思っている

紅白歌合戦など中学生時代以来進んで見なかったボクが、黒部ダムの中で歌詞を間違えた彼女を観てうれしかったし、かぐや姫と拓郎のつま恋コンサートで、「永遠の嘘をついてくれ」をぶっきらぼうに唄い何のコメントもなく去って行く姿には感心したものだ。エライと勝手に叫んでいた。

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誕生 

作詞・作曲:中島みゆき 編曲:瀬尾一三

ひとりでも私は生きられるけど でもだれかとならば人生ははるかに違う

強気で強気で生きている人ほど 些細な寂しさでつまづくものよ

呼んでも呼んでもとどかぬ恋でも むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ

待っても待っても戻らぬ恋でも 無駄な月日なんてないと言ってよ

めぐり来る季節をかぞえながら めぐり逢う命をかぞえながら

畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく

泣きながら生まれる子供のように もいちど生きるため泣いてきたのね

Remember 生まれた時だれもが言われた筈

耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome

Remember 生まれたこと Remember 出逢ったこと

Remember 一緒に生きてたこと そして覚えていること

ふりかえるひまもなく時は流れて 帰りたい場所がまたひとつづつ消えてゆく

すがりたいだれかを失うたびに だれかを守りたい私になるの

わかれゆく季節をかぞえながら わかれゆく命をかぞえながら

祈りながら嘆きながら とうに愛を知っている

忘れない言葉はだれでもひとつ たとえサヨナラでも愛してる意味

Remember 生まれた時だれもが言われた筈

耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome

私いつでもあなたに言う 生まれてくれてWelcome

Remember 生まれたこと Remember 出逢ったこと

Remember 一緒に生きてたこと そして覚えていること 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

この唄の何がいいのかを語ってもしようがないかもしれない。唄はイイと思ったヒトそれぞれに響くところがあるのだと思う。でもどこが特に好きかと云えば「めぐり来る季節を数えながら めぐり逢う命をかぞえながら」からの広がるような優しいフレーズがなんとも云えず聴き入ってしまう。そして二番ではそこが「わかれゆく季節」にかわる。彼女の歌は瞬間瞬間を切り取ったものであるよりも、唄全体に起承転結があり季節があり輪廻があるように感じる。生死、別離・・・彼女を初めて知った中学生の頃、ラジオから聞こえるポプコンの「アザミ嬢のララバイ」や「時代」の頃から、彼女のテーマは変わっていないように思う。それがいまだに色褪せないで響いてくるのに感心する。

この唄を初めて聞いた頃は、あまり好きじゃなかったように思う。ボクは歌詞の中に英単語が入っている唄がそんなに好きじゃない。RemenberだのWelcomeだなんて、なんなんだと、そう少なからず疎ましく思っていたのだろう。

「ひとりでも生きられる」とさりげなく強がりながら、「でもだれかとなら人生ははるかに違う」と認める。彼女は強いだけの女性ではないのだ。そして彼女の音楽を好きな人々もきっと、彼女のその弱さに惹かれるのではないだろうか?

ヒトは自分の生まれた時のことを覚えていない。でも独りでは生まれたりしない。母親と、そしてきっと看護婦さんや産婆さん、お医者さんがいたに違いない。その時なんと声をかけられたのだろう?自分はどんな生まれ方をしてどんな声を聞いたのだろうか?

今は出産を録画することがあるそうだが、羨ましく思う反面、それはどうなのかな?と思う部分もある。ボクには自分が生まれた時を映像で記録することが出来なかった時代に生まれてよかったとホッとする気分がある。

そして「忘れない言葉はだれでもひとつ たとえさよならでも愛してる意味」これは何だ。それじゃぁみんなきれいな思い出になっちまうじゃないか。

「誕生」・・・たまに聴くと思わず泣けて来ることがある。歳をとったからだろうか?

2009年6月 7日 (日)

読書録 副島隆彦「恐慌前夜 アメリカと心中する日本経済」 '090607

珍しく経済書を読んだ。「恐慌前夜 -アメリカと心中する日本経済-」、副島隆彦さんというヒトの本だ。

経済書と云うのは書店に行くと随分並んでいるが、今までほとんど近づかなかった。ボクのように勉強が嫌いで偏差値から忘れられたような地味な大学(でも楽しかった)を出て、中小企業を渡り歩き、英語も覚えずITも苦手な化石的オヤジには、世界経済の動向など縁のない世界だと思っていた。

しかし、世界経済に興味がないか、と云えばそうでもない。そうでもないが難しそうだったので手にしなかった。しかも日本経済の趨勢すらわからないし、行列好きでふらふらしてるだけの国民の上に殿様よろしく世襲が当たり前のように振舞う保守系議員が跋扈する国政を観るに及んで、世界経済なんて知っても仕様がないではないか、と諦めてもいた。

そんなボクも、ここ数年の世界経済の堕落、日本経済と政治の愚かさ、そして弱肉強食の度合い(格差拡大)が日増しに高まり、隣の席の人間を貶めるような競争を奨励する殺伐とした社会に疑問が募っていたし、自分がしばらく外資系企業に居てアングロ・サクソン的な理不尽さが心底嫌気が差して辞めたこと、しかし日本人として真っ当にやって行こうと日本企業に入ってみたら、そりゃぁもう鬱病の部長が役員と結託してパワハラしてたり、中堅社員が部内を恐怖政治で(鬱病部長を支配して)仕切ってたりで、もう大変な世界だったりで、日本企業のいい加減さにもうんざり。こんな厭味なところには居たらこっちも鬱病になりそうだったんで辞めたら、この大不況・・・そんじゃイッチョウ経済書でも読みますか、と手にしたのがこの本だった。

ボクはついぞ知らなかったのだが、この副島隆彦さんという方、多数の本を書かれていてこの世界では相当有名らしい。まぁ所謂博士系経済学者ではなく、自らの経験と知識で大胆に論じている訳で、本書を読んでいると目の前で顔を真っ赤にして熱心にオルグする副島氏の唾がかかって来るような錯覚に陥りながら読んでいた。まさに熱血な方である。ボクより10年ほど上の世代で、早大時代には政治運動にも関わっていたとのことだが、早大の主流セクトでなかったとすれば、革マル派には頭の痛い存在だったのだろう(革マル派だったりして)。

経済書としてはかなり異端な本を手に取ったわけだが、実際の生活感覚としてはこの本は真っ当に現実的だ。副島氏の論法は現実の社会経済を俎上に挙げ、一つひとつを鋭利に切り取って行く。そして他者に憚ることなく断罪し、断定し、予言する。これはかなり心地良い。これほどはっきり云い切るヒトが日本にもいたのだと感心したものだ。しかし、ある意味過激で新聞やTV局は論評を求めないだろう。「国民の目線で」的な立場に居そうで実は高給を食んで優雅な世界に暮らす主要メディアには、彼のようなはっきり云う“タレント”は使えないだろう。「朝まで生テレビ」にでも出ていただき、もうろくして他人の意見を全く聞かない電波芸者(あぁ旧きコトバ)田原総一郎をやっつけて引退させてもらいたものだ。

副島氏はこの本の中で、US中心経済の破綻、特にサブプライムなどレバレッジによる詐欺的な金融工学が幅を利かせた経済の暴走がこの現実を招いたと断じ、当然の帰結だと論じている。またその中心となったUSの投資銀行の金融工学の危うさに気付いたにも拘わらず、USの銀行やFRB、目先の利益に目が眩み阻止するどころか逆に乗っかってしまい、また欧米や日本の銀行や投資団体がそれに乗り遅れまいと巨額な資金を注ぎ込んでしまったのだとはっきりと述べている。まさにレミングの集団自殺だ。

この本が出版されたのは'08年の9月15日。それはこの本の出版日がリーマン・ブラザースの連邦破産法第11条申請日と重なるということ。結果的に副島氏の指摘に世界の潮流が追いつく形となった訳だ。要するに日本の主要マスコミは、世界経済をほぼ正確に予測できる日本人を論客として使えてないということなのだ。

「恐慌前夜」を読んで関心した箇所はいくつもあるが、特に面白いなと思ったのは以下の点だ。

1.銀行預金を引き出し、金地金と不動産に投資せよ

こう副島氏は読者にひたすら呼びかけている。銀行預金は間もなく統制になり自由に出し入れできなくなる(出金についてはすでに始まっている)。金地金と不動産、これが一番の資産であると説く部分には、博士系経済学者にはない庶民的な皮膚感覚の経済論を感じた。実際の金融業界や世界政治に何の希望もないのだからと、今ある現物を握るべきだとバッサリ切り捨てる彼だからこそ云えるのだろう。ボクも心情左翼学生のひとりだったからこそ、心中「異議なしっ」と同調してしまった部分だ。

2.USは世界恐慌に備えている

USのバーナンキFRB議長の専門が「恐慌論」であることをこの本で知った。彼は「日本の昭和恐慌と高橋是清の経済政策」が研究主題である、と云う意味は、US経済当局はすでにサブプライム問題の波及が世界的な恐慌をもたらすと予想し準備していたことになる。これも日々の情勢に右往左往する新聞記事やTVニュースでは決して知らされない事実だ。今のUS支配の政治経済の状況下では何も変わらない。いや余計に引きづられるだけだ。日本がそこから抜け出すには、US支配=USは復活するし頼りがいがある、という妄想から解かれなければならない。寄らば大樹では全てを悪化させるという予言だ。

3.次の投資先企業はゼネコンと水関連だ

バブル崩壊後あれほどの苦境を生き抜いてきたゼネコンはきっと逞しくなっているだろうとボクも感じていた。相変わらず談合が頻発する不透明な世界だというし、西松のように権力や検察に翻弄される状態では、まだまだ業績は上向いたりはしないだろうが、それに耐えるゼネコンは今きっと牙を磨き=技術力を高めいているだろうと勝手に期待している。そして水である。不況で一時の勢いはないだろうが、オイルマネーに飽かしてドバイやサウジアラビアなどは相変わらずのバブルを謳歌している。また共産主義ではなく完全な「開発独裁国家」となって久しい中国も、オリンピックの余勢を買って相変わらず鼻息荒く経済拡大している。しかし、この両地域のネックはまさに「水」だ。汚れた水は何も生まない。そもそもこの両地域は水に恵まれない上に、水質浄化とか汚染防止という概念が薄い。なぜか?環境汚染防止と経済発展が両立するには、民主主義の成長が必然だからだ。しかしそれが育っていない=歪に権力が偏在する社会では、ひたすら開発が優先される。日本の高度成長時代がそうだった。社会的弱者を置き去りにし、環境汚染は極端に進んだ。しかし日本は水が豊富だったことから、それが隠ぺいされ、結局被害の発覚は河川の汚染からの水俣病やイタイイタイ病と云う形で発覚した。水がたまる場所で環境破壊は顕在化するのものなのだ。中東と中国は遠からず浄化された水の供給に逼迫するだろう。その解決には「水関連技術」を持つ産業の関与が必要となる。生き残るためにはヒトも経済も国も「水」が必須なのだ。

「私は先が見通せる」と副島氏は「あとがき」で書いている。いや書いてしまっている。これは自信だろうか?そうかもしれない。しかし逆に彼のうめきでもあるのかもしれない。「こんなに先を読めるボクがなぜ社会の中央で論じられないのか?」「世界はボクの指摘をどうして喜ばないのか?」と。情勢を論破しているからこそ感じる不遇が、彼をこう書かせるのではないだろうか。

ボクは思う。天才は不遇であるべきだ。不遇だからこそ輝くのだ。ナチスドイツに阻とまれたパウル・クレーは、「この世では、ついに私は理解されない」と云ったという。副島氏はきっといつか評価されるだろうヒトではないかと感じた。

下宿の畳の上で寝転んで革命を信じ読書に励んだ日々、四角い硝子越しに見た冬空の碧さを思い出す中年がどこかに居るような気がした。世界は変われるだろうか?

書名:恐慌前夜 -アメリカと心中する日本経済-、出版社:祥伝社

作者:副島隆彦

2009年6月 6日 (土)

失業の風景 何が支えになっただろう '090606

失業して10ヵ月。その間、何が支えになったかと云えば、映画に小説、そしてこのブログ書きだったように思う。

そのブログをどれくらい書かないとアクセスが無くなるのかなぁ?と興味があったところ、6月に入って四日目の朝、とうとう0時から朝8時までアクセスなし。まぁ、そんなもんなんだろうなぁと思った(その日は結局終日で19件のアクセスがあった)。

5月に入ってから、数人でやっているささやかな会社に勤め始めたが、久しぶりのサラリーマン生活になかなか慣れない自分がいる。その5月にボクは28件のブログを書いた。再就職した忙しさの中、よくもこれでけ書いたものだと思う。なぜだろう?

思えば、ここ最近のアクセスには二つの山があった。GWにTV東京で再放送された山田太一作「小さな駅で降りる」を観てすぐに綴った後しばらくアクセスが増え、その後、「行列のできる法律相談所」に岡田奈々嬢が出たことについての思いを書いたあとの約二週間にアクセスが急増した。たぶん注目されたのは、岡田嬢の登場の導入になったタレントの宗教絡みの一文節を記述したことによる反響だったのだろう。余りのアクセス数の増加(と云っても一日100を超えた程度だったが)、反響に恐ろしくなって、その日のうちに団体名を外し表現を柔らかくしたのだった。

4月までのアクセス数は一日平均3回くらいだったので、それでも「ボクのブログに来てくれる人がいるんだなぁ」と喜んでいたものだが、5月には急にアクセス数が増えて、最近の一ヵ月だけを観れば平均は約30回くらいになるのだろうか。見ず知らずのヒトたちと一日で30人も会うなんてバスガイドかツアーガイドを除けばほとんどないだろうから、少々感動的な日々だった。

4月までは、その時読んだ本(読書録)、観た映画(映画録)、好きな食べ物(好物録)など、自分がしたり思ったりしたことばかり書いて来て、内容はまさに日記。テーマを絞ったブログでもないし、しかもアマノジャクな性格から流行りの本は読まないし映画も観ない(試写会鑑賞時を除く)。誰もが忘れた頃にたらたら思いをぶつけてる。そんなブログが早々注目されることはないと、今でも思っている。

日々のアクセス数が数十を越える日が多くなったからと云って喜んでいては、毎日何万もアクセスがあるタレントや人気ブロガーの方々に笑われるだろう。今のアクセス数が個人のブログとしてどれくらい少ないのかはわからない。しかし、自分のつたないブログに毎日そんなに覗きに来る方が居てくれるのだなぁと素直にうれしいし、それですごく満足しているのだ。もちろん数字に喜んだだけで、観に来た方の中には「こんな変なこと書いてる奴がいるぜ」と笑ってるヒトもいただろう。訪れはしたけどわずか数秒で去って行く訪問者もいる。まぁ、それはしょうがない。内容が“無いよう”と云うことだろう。笑われて当然だ。

約一年、ブログを書き続けて来ての気付きはふたつ。ひとつは、時勢に合ったこと、たとえばその日に観たTV番組や社会の動きについて書けば、当然のようにアクセスが増える。そしてもうひとつは、地味な本や映画のことを書いたり些細な話題でも、すぐにはアクセスはないけれど、ある日ずいぶん昔のページを覗いてくれるヒトが必ずいるということ。これはうれしい支えだ。これがnetの素晴らしさであり、検索エンジンのすごさだろう。

でも、去年の6月、逃げるように前の職場を辞めてから早11ヵ月が過ぎた。10ヵ月の失業期間を経て、まだなんとか生きていることに、少々ホッとしている。

冒頭に映画と小説とブログ書きが支えになったと書いた。それは正しい。しかしもっと支えになったのは、妻の「そのうち働くんでしょ」という言葉と、酒や愚痴に付きあってくれた友人たちである。 感謝。ただひたすら感謝するのみ。ヒトは支えあって生きているのだとつくづく思っている。

2009年6月 5日 (金)

風景の中で 梅雨がもうすぐやって来る '090605

子供の頃、6月は田植えの時期で、家の大人たちは朝から水廻りや苗の世話で大変だった。まだ田植え機などない頃で、田植えの日には親戚や親の会社の同僚たちが駆けつけて一斉に田植えをしたものだ。水を張った水田に大人たちが横一線に並んで、一斉に苗を植えて行く。祖母などは田植え唄なども謳っていた。意味不明で上手いとは決して思えなかったが、今思えばただ懐かしい。どんな歌詞だったんだろう。

田植えの時期は、水田農家の子供も観客ではない。祖父に姉やボクに変形した田の隅に連れて行かれ、「ここがお前たちの担当だ」と苗を渡された。仕事を与えられた喜びでぬかるみの田に入って泥だらけで不細工な田植えをしたものだ。

田植えが終われば酒盛り。仏間続きの八畳間がビール瓶で埋め尽くされた(缶ビールなんてのもなかった頃)。よくもまぁこれだけのビール瓶を空に出来るものだと子供ながらに驚いたものだった。田植えが終わっても母と祖母は料理作りが待っていた。あの頃、農村の女はいつ休んでいたのだろう。祖父母もすでに亡く、年老いた父母は稲作を放棄して数年になる。ボクはひとり故郷を遠く離れ、遠い昔の思い出だけが鮮明に蘇る。

ボクの誕生日もこの6月。子供の頃はいつも田植えの真っ最中で誕生祝いをする雰囲気ではなかった。というより誕生日を祝う、という風習すらなかった。父は今でもボクの誕生日を知らないだろう。ただ祖母は農協の購買(まだAコープなんて変な名前はなく、ただ単に「農協」と呼んでいた)でパインアップルの缶詰を買って来てくれて、祖母と姉と3人で食べたことを思い出す。輪切りにされたあの甘ったるいシロップ漬けの味。実を食べ終わった後に飲み干す心地よさ。貧しい時代のささやかな御馳走だった。農村育ちのボクには「ケーキ」と云う言葉もまだ知らなかった。

風に水気を感じるようになると、ボクは田植えを思い出す。あの水田はもうすぐ区画整理の対象になって宅地化される。汗かきのボクには苦手な季節だが、ただ懐かしい、もう取り戻せない歳月。夜気に当り、ふと振り返ってしまった。

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