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2009年6月29日 (月)

読書録 宮田親平「ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」 '090629

現代を生きるボクらの周りには、様々な機器や道具がボクらの生活を支えてくれている。その一つひとつには、多くの先人の発明や発見、そして工夫が集積されている。100年前のボクの実家にはたぶん電気は来ていなかっただろうし、ボクの生まれた40数年前にはまだカラーTVはなかった。そう、ボクの中学時代にはコンビニもなかったし、高校時代にはパソコン、大学時代には携帯電話もなかった。名も知らない科学者や研究者がコツコツと研究を積み重ね、たくさんの失敗を繰り返しながら貴重な発見をして、今日の便利な道具や機器となって使われているのだろう。そう、今このPCだって書いているブログだって、ほんの十年前にはなかったものだ。

科学史という世界がある。しかし科学はその全てが人類の幸せに貢献した訳ではない。かのアルフレッド・ノーベルが開発(※1)し事業化したダイナマイトは、氷河が削った岩盤むき出しの大地が広がるスウェーデンで鉄道や道路建設に貢献したが、戦争では破壊と殺戮を目的に大いに使用された。ジェット機も初めに飛んだのはナチスドイツの戦闘機としてのロンドン空爆だ。科学とはかくも哀しい運命も共にしているのだ。

フリッツ・ハーバーという科学者をボクはこの本を読むまで知らなかった。この朝日選書に収められた「毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」がなかったら、ボクはずっとハーバー(1868-1934)を知らずにいただろう。

まずボクの興味は、科学が飛躍的に発展した19世紀から20世紀にかけての欧州の時代背景だ。ベルリンの壁崩壊をその象徴として政治陣営の東西の区別が無くなって早20年近くが経つが、欧州ではこれまでの100年、劇的な変化があり、科学者はそんな激動の時代に様々な発明をしただ。そう云う意味では20世紀は“科学の世紀”と呼べるのかもしれない。

そしてさらに興味深いのは、民族意識と国家への帰属意識だ。(ボクが見るに)外見があれほど似ているにもかかわらず、小さな民族がそれぞれに独立国家を形成している欧州、そしてフランスやスペインのように中央集権をことさらに強調するあまり国内の地域主義を抑圧する。他者との違いを強調する力を反面国内には同化を求める。フランスのブルターニュやコルシカ、海外県の扱いや、スペインのバスクやガリシア、そしてカタロニアの扱いなどもなんだか滑稽だが、されどそれが国家なのだ。国家とは何とも曖昧でかつ魅力的な幻影のようなものなのだ。そして特に興味を引くのはユダヤ人(民族)だ。

北米移住やイスラエル建国まで、欧州に広く散住していたユダヤ人が、どう生きていたのか?それは一様ではないはずで、この本の主人公であるハーバーの人生も波乱だ。著者の宮田氏はこの書名の副題に「愛国心を裏切られた科学者」と記した。およそ科学と愛国心ほど、微妙なものはない。科学には本来国境はない。しかしその科学者には皆それぞれに故郷があり帰属意識もあるだろう。しかし、ユダヤ人であったハーバーはどうだったのか?宮田氏はその意識をハーバーの言葉で示す。

平和時には人類のために、戦争時には国家のために

このなんと矛盾に満ちて、かつ肯定せざるを得ない言葉の響きはなんだろう。

ユダヤ人であったハーバーが、ドイツ人たらんとして第一次大戦に馳せ参じる覚悟をし、“戦争を早期に終わらせるため”に毒ガスの開発と生産に心血を注ぎ、挙句軍服まで着こんで東西の前線で指揮を執ったのはなぜか?異教徒として蔑すまれ、職業や住居を限定され、卑しいものとして迫害されてきたユダヤ人の末裔がなぜ帝政ドイツを応援したのか?

ボクはこう思う。彼の育った幼少の頃(19世紀後半)の旧ドイツ地域は、まさに諸国割拠状態を脱してプロシアを中心としたドイツ民族運動の真っ最中だったのだ。有史以来初めてドイツ語を母語とする統一ドイツ国家が初めて生まれようとしていた訳だ(※2)。彼はこの時代に領土を持たないユダヤ人であるより、この誕生間もない「ドイツ」と云う国の国民となろうしたのではないか。そしてよりドイツ人になるためには、ドイツ人として戦争に勝つために己の科学力を捧げようとしたのではないか。

この本の詳細をここで記述しても何もならない。ただハーバーと云うヒトが、こうして物語りとなりえるのは、数々のエピソードと卓越した科学者魂である。母を知らない誕生、父との確執、ドイツ帝国の誕生、科学者としての格闘、そして「ハーバー・ボッシュのアンモニア合成法」の発明と毒ガスの開発と決行、その抗議としての妻クララの自栽・・・彼の半生の前半から中盤に至るその凄まじいドラマの連続。まさに欧州の歴史そのものではないか。

そしてまだドラマは続くが、その冴えたるものは、彼が開発した毒ガスが、彼を追放することになるナチスドイツにより、彼の出自であるユダヤ人を大量殺戮することになる皮肉。

多くのユダヤ系科学者がドイツを去ることになるナチスドイツによるユダヤ人排斥に、ヒトラーは「これからの百年、ドイツは物理も化学もなしにやって行こうではないか」と答えたというこの破綻した思想は何なのだ。ボクはこの言葉の狂気は「大東亜共栄圏」を唱えながら広くアジア太平洋地域を戦争に巻き込み、自国民を戦時体制下に置いた帝国主義日本の本質となんら変わりはないではないかと。

宮田氏はこの本で、ハーバーと日本の関係もじっくり掘り起こしている。興味深かったのは、星製薬創始者・星一との関係である。ボクが知っていたのは、彼が星薬科大学を創ったことと子息にSF作家の星新一氏がいることくらいで、今はなき星製薬とはどんな会社だったのかも、この本で知らされる。

ハーバー・ボッシュ法の発明により食糧増産に寄与し、かつカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所(現マックス・ブランク研究所)の所長として多くの科学者を育て、科学者として人類への貢献を高く評価され、かつノーベル化学賞にも選ばれたハーバーは、一方で毒ガスの開発者として戦争史にも刻まれている。ユダヤ人改宗プロテスタントとして、妻をも自殺に追い込んでさえ誰よりもドイツ人たらんとしたにも拘らず、そのドイツから追放されたハーバー。この人生の皮肉は何か?

ただ幽かな救いとすれば、多くの科学者を愛し、数多くの科学者に愛され、ナチスドイツの毒ガス室の悲劇を知らないうちに亡くなったこと、そして死後妻クララと共に同じ墓に眠っていることだろう。あの世と云うものがあるとすれば「ほら見なさい」と妻に叱責されているであろうハーバーが見えるようだ。狂気の科学者として語られるかもしれないが、まさしく愛すべきドイツ人であり、科学者の鏡でもあったと云えるのではないだろうか?

多くの科学者をボクは知らない。きっとハーバーの他にも数々の科学者がまだいるだろう。この「毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」を知ったことでボクはハーバーという特異な科学者の足跡に触れる恩恵を得た。科学史とは人類史なのだと改めて感じたひとときであった。

※1.ダイナマイトはノーベルが発見したのではなく、ソブレロが発明したニトログリセリンを工夫を重ねて実用化したそうだ

※2.フランク王国や神聖ローマ帝国をドイツ人統一国家と見る人もいるだろうが・・・

書名:毒ガス開発の父 ハーバー 愛国心を裏切られた科学者

著者:宮田親平

出版社:朝日新聞出版・朝日選書834

初版発行:2007年11月25日

余談:著者の宮田氏の本に最初に触れたのは、科学書ではなく路面電車の紀行である。氏は路面電車と地図(とプロ野球のパr・リーグ)の大ファンとして知られており、ボクも氏の「ヨーロッパ市電王国を行く(光人社)」、「トラムのある街(同)」を旅のバイブルとして愛読している。

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