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2008年11月の10件の記事

2008年11月29日 (土)

世相考 宅配ピザはどうなっているのか? '081129

店屋物、と云う言葉はもう死語だろうか?寿司、そば、丼ものなど、出前してくれる食べ物は多いが、この2,30年のうちに急速に伸びた店屋物の代名詞と云えば「宅配ピザ」ではないだろうか?

ピザはどちらかと云えば好きな料理だが、ボクは貧乏性なのか“割高”感と食後のゴミが多めに出ることから宅配便のピザを頼むことは数年に一度くらいだ。まぁ訪問客が少ないことや子供がいないことで、だいたい家には二人しかいないから、頼むより作るか、食べに出かけることになるからだろう。でも、たまには食べたい宅配ピザの今はどんなものだろうか?

家のポストによく宅配ピザのメニュー表が放り込まれている。いつか頼むかもしれないと思ってとっておいたりするのだが・・・今、手元にあるのが、Pizza HutDomino's PizzaPIZZA SALVATORE、④ナポリの窯、の四種類。なぜかPizza-LAが見当たらないが。どのメニューもきれいで美味しそうな写真を掲載している。そしてメニューは・・・A.掲載メニュー数、ユニークさ、B.サイズ別価格、表示、C.サイドメニュー、D.持ち帰り割引き率、E.メニュー表に付いているクーポン、の内容を観てみた。

A.掲載メニュー数、ユニークさ

ピザ15種類、パスタ4種類を掲載、四分の一づつ違う具やソースが違うものや、「みみ」にチーズとソーセージが入っている「笑顔のダブルロール」がユニーク

ピザ29種類が掲載、四分の一づつ違う具やソースが違うものや、カマンベールチーズを増量した「ミルフィーユ」や「チーズリストランテ」など豪華メニューあり。生地が4種類から選べる

ピザ14種類、パスタ11種類を掲載。メニュー表にアレルゲン表示あり

④ピザ20種類、パスタ16種類を掲載。グラタン、ニョッキなども。

B.価格サイズ別、表示

M:\1,400~2,400、L:\2,500~3,500、Mサイズが約25cm、Lサイズが約31cmの大きさ表示あり

M:\1,580~3,000、L:\2,520~4,500、サイズ表示はない

MLの区別なく、直径30cmのみ:\2,200~2,800

④約25cm:\1,200~2,000、約31cm:\1,900~2,700。大きさ表示あり

C.サイドメニュー

、②チキン、ポテト、サラダ、スィーツなどあり。また組み合わせのセットあり。

ローストチキン、サラダ、ソーセージ、生ハムなど多彩

④チキン、ポテト、サラダ、スィーツなどあり。エビフリッターなども。

D.持ち帰り割引き率

6種類限定、水曜日限定でPizaaのみ半額

買い上げ額の20%Off

割引なし、ただし店舗で食べられる

④Pizaaの買い上げ額の10%Off

E.メニュー表に付いているクーポン

\2,500以上で\600OFF、\3,500以上で\800OFF

クーポンはなし

なし、ただしカードでの支払いが可能

④ジェラート、キッシュタルトの半額券など

なるほど、各チェーン店ともにそれぞれ特徴があるのだなぁと感心した。値段的には外のお店で食べるよりは割高感はあるが、ヒトが集まる時などは手間がかからずいいのかもしれない。たまには試してみようかナ。

2008年11月26日 (水)

映画録 THE BUCKET LIST/最高の人生の見つけ方 '081126

老優モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンが主演の「最高の人生の見つけ方」を観た。この二人はほんと巧い。双方出演している映画をたくさん見ているのに、そんなことを気にせず、違和感なく映画の人間になりきっている。巧い。

この映画は観たヒトの年齢によってかなり感じ方が違うんじゃないかと思う。人は若い頃「私は人生のどれくらいを消化したかな?」なんて考えもしないかもしれないけど、歳をとると「俺はあと何年くらい生きるのだろうか?」と思ったりすることがあるだろう。ヒトによるだろうが、たぶん40歳くらいを境にしたくらいに。

この映画を簡単に云えば、「死ぬまでにしたい10のこと(※1.)」ジジイ版。なんて書くと誰かに叱られるかもしれないけど、自分の人生が残り数カ月と聞かされた金持ちジジイと老年エンジニアが、余りのお互いの人生の違いに関心を持って、し残した願望リストを手に世界中を旅しちゃうハナシ。夢のような人生のクライマックスには、なんともまぁハリウッドって奴は!と、そのあり得ない設定にもかかわらず観客を笑いと憧れいっぱいにしてくれる気持ちの良い映画である。

そんなあり得ない夢物語を立派な娯楽作品にしたのは、まさに“円熟”としか言い表せない自然な演技を観せた主演のふたり。キャスティングの時点でもう映画の成功は決まっていたようなもの。キャスティング、重要だな。そして貧乏庶民にはこんな嫌味な贅沢旅行を、TBS-TVの(放映時間が夕方になって観なくなりましたが)の「世界遺産」みたいな見事な映像旅行にしてしまったロブ・ライナーの演出!・・・さすが「恋人たちの予感」の監督である。この安定感には脱帽ものだ。芸達者がふたり、そして想う存分演じてもらう監督がひとり、この三人を中心にして映画作りが廻ってたって感じ。

そして設定作りが巧い。金持ちジジイは病院チェーンを経営しているが、その売りが「個室なし」。自分が入院しても二人部屋だってところがいい。日本でこんな経営者が自分の病院に入る事業家がいるだろうか?きっと慶応大学病院の最上階のような豪華な差額ベッド部屋に入るはず。そいう云う意味でこのオヤジは真の悪じゃない。ケチでまじめなのだ。そして「最高の美女とのキス」の設定には脱帽!うまい!

そしてなにより羨ましかったのは、人生の最後に最高の友に出逢えた事でしょう。友達、大事だな。この映画は「最高の人生の見つけ方」というよりも「最高の友の見つけ方」だな。原題は「棺桶リスト」という題だそうだけど、これも笑える。

余命六ヶ月、一生分 笑う。 』  ・・・チラシの宣伝コピー・・・

“こんな死に方してみたいもんだねぇ”とため息しながら、でもきっとさびしく野垂れ死にしそうなボクは、内容がちと羨ましすぎたかかな。

観たのは飯田橋・ギンレイホール、東京にわずかに残った名画座には、映画好きの老若男女で盛況でした。おばちゃん、ビニール袋、シャカシャカしたら迷惑いだよ。

※1.http://www.eigaseikatu.com/title/3954/

2008年11月23日 (日)

音楽録 浜田省吾「東京」 '081123

路地の裏で少女が身を売りる

少年たちは徒党を組んで獲物を探す

プールサイド寝そべる金持ち

真夏の街を仕事探してさまよう人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浜田省吾が歌った「東京」の冒頭だ。

格差・・・簡単に云えば貧富の差だが、元々この世の中には存在するもので、それはどうしようもないことなのかもしれない。しかし・・・格差を再生産するシステムをこの社会が温存しているのなら・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

満員電車 疲れ果てた顔

子供達は校舎の中で押しつぶされてく

ネオンの下で孤独は取り引きされ

老人達は失意の中で何も語らない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まさに今の時代を語っていないだろうか?この国はいつから、ヒトが人を踏みつぶして平気な国になったのだろうか?くそまじめな勤勉とささやかな平等、そして遠慮と慎みが自慢の島国だったのではなかったか?勝った負けたを競う国ではなかったはずだ。

浜田省吾の「東京」は、'80年10月に発売されたアルバム「Home Bound」に収録された歌。「Home Bound」は、彼の第二のデビューと云える作品ではないかと思うのだが、このアルバムから内省的な歌も含めて、その後のハマショー的なメロディの典型が示されていると感じる。

彼がいつこの曲を書いたのかわからないが、彼が'70年代前半に体験した学生運動(「遠くへ-1973年・春・二十歳-」で“紺と銀色の盾の前で祈り続けた”頃)の挫折を経て、社会に出た頃の視線だろう。特に彼の在籍した神奈川大における社青同解放派への革マル派によるテロ攻撃を目にして、新左翼運動の挫折を強く感じたのだろう。

そして彼はシンガーとしての忍耐期とも云える'70年代を過ごすうちに、この「東京」を綴ったのだろう。中曽根政権頃から胎動した累進課税改悪による金持ち優遇の流れ-「中流社会」の瓦解-を悟ったのではないか?浜田省吾は、'70年代にすでにま21世紀の今の東京を見通していたのではないだろうか?

2008年11月20日 (木)

映画録 A History of Violence/ヒストリー・オブ・バイオレンス '081120

「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を観た。8月の映画の日に「イースタン・プロミス」を観てその余りの余韻(感激)に、こりゃ同じコンビ(監督:デヴィッド・クローネンバーグ、主演:ヴィゴ・モーテンセン)を見逃したままではイカンという強い思いで名画座での上映を探して10月の中旬に渋谷・桜ケ丘のシアターN渋谷でようやく観た。この映画でこのコンビができたのですな。う~ん、なかなかな力作じゃぁないですか!

全世界がその”暴力”に圧倒された! 驚愕のバイオレンス・アクション 』  ・・・チラシの宣伝コピー・・・

街道荒らしのようなチンピラ殺人鬼を思わず見事にやっつけちぇったのが運の尽き。その余りに見事な活躍振りがマスコミで話題になっちゃったものだから、ついつい昔恨みを買ったやくざな連中を引き寄せちゃった。やっぱ殺しのテクは体に染み込んでいたんだね~、でもあの時はああでもしないと、ダイナーの同僚が殺されるところだったから、避けられない措置だった。

でも、田舎道に不釣り合いなデカ黒クルマで不気味に付きまとい始めた人相の悪いお兄さんたちにおびえた妻は、旦那の過去に段々不審が不信になってゆく・・・好きなのに信じられない・・・もしかして、このヒト・・・。平穏な生活に忍び寄る影。子供たちも疑い始める。せっかく幸せな隠遁生活を送っていたのに困ったもんだ、決着付けなきゃと相変わらず極道している兄弟をやっつけに行く主人公・・・。

この主人公の過去がやくざな連中の登場で少しづつ暴かれてゆく前半から中盤がなんとも不気味でイイ。本当にこの男にはどんな過去があるのだろう?と。そう云う意味では、家族を脅えさせる怖いお兄さんたちが迫力あったってこと。特にエド・ハリスの不気味さって筋金入りだ。以前「白いカラス」でも別れた妻に付きまとう男の哀しい演技に凄味があった・・・現在のUS映画界にとってエド・ハリスの重要度はかなり大きいのではないだろうか?また、悪兄役のウィリアム・ハート・・・この映画では実は喧嘩に弱いマフィアの親玉だったけど、悪役もハマってた。昔「愛は静けさの中に」で素敵な青年だったけど、「キング 罪の王」や「イントゥ・ザ・ワイルド 」でのワンマン悪玉オヤジ振りがかなり様になっている。善も悪もしっかり演じられるイイ役者になったってことですな。

モーテンセンの演技も過去をひた隠しながら、堅気のカミサンに頭が上がんないところがなんともかわいい。階段のエッチシーンなんかゾクゾクしたなぁ。そしてこのカミサン役のマリア・ベロがかわいい。彼女は「ER」の頃からキュートだったし、「サンキュー・スモーキング」でもいいオンナだった。知的な美しさに思わず降参した次第。

しかし、それもこれもクローネンバーグ監督の演出がすごいんだろう。彼、「スキャナーズ」や「デッドゾーン」の頃から独特のグロさに感心してたけど、その後もどんどん映画作りがうまくなってるみたい。今後も期待大であります。願わくば「イースタン・プロミス」の続編が観たい!

2008年11月17日 (月)

マナー考 本を借りる '0811117

生れながらの本好きなので、本を買うだけでなく、公共の図書館でもよく本を借りる。そこで困ることを書きたい。

1.線引き

本を読むときに、文字の横に線を引くヒトがいるが、図書館の本に線を引いたものを目にすることがある。自分が購入した本なら好きにすればいいが、公共の本に線を引いてどうするのだ?「わたしはこの部分が重要だと思ったぞ」と教えるつもりなのか?線が引かれた部分はどうも気になるもので、それまで読んで来たリズムが崩れたりするのだ。線引きが少ない時などは消しゴムで消したりするのだが、あんまり長大なものは何もしない。無理に消しゴムを使えば、ページがくしゃくしゃになってしまったりする恐れがあるからだ。返却の際「文中に線がたくさん引いてありますが、以前からあったものです」などと口添えすることもある。中には、黒鉛筆ではなく、赤鉛筆やラインマーカーで引いたものなども見かける。まったくヒドイ輩だ。

2.紙破り

これは学生時代に国立国会図書館で経験し、最近都立日比谷図書館でも体験したことだ。信じられないことだが、本や雑誌のページや新聞の記事を破いて持って行ってしまう輩がいることだ。破いてしまったら、そこにどんな話が載っているか分からなくなる。小説など読んでいると、急に話が跳んでおかしいなぁ、と思ったらページごど失われていたり、雑誌や新聞のコラムなどの部分がぽっかり空いていたり。本を汚したり、線引きするのも困るが、文字は読めれば何とかなるもの。しかし、文字が無くなってしまったら、文字を読む目的自体が失われてしまう。そんな場面に直面すると悲しくて固まってしまう。国立国会図書館で閲覧した本に欠損頁を見つけた時は正直びっくりしたものだ。あらゆる出版物の収集を目的としてあるのに、その本が破損されているとは・・・

自分のものではない本をどうして汚したり(線を引く)、破ったりできるのだろうか?公共のものとは、他人の物であり、自分のものの一部でもある。自分が読みたい本が失われていたらどう思うのだろうか?他人の立場に自分を置いてみたら、そんなことはできないはずなのだが・・・本当に寂しく、悲しい。

以上、公共の図書館の本にして欲しくない事柄を書いてみた。

2008年11月14日 (金)

映画人想 マイケル・クライトン '081114

マイケル・クライトン氏が亡くなった。医師であった氏が66歳の若さで亡くなったのは、なんとも皮肉だ。そして氏の作品のファンとして大変残念でならない。

共に映画化された「アンドロメダ病原体」「ウエストワールド」を著してSFファンの中に知られた感がある氏だが、世間的には「ジュラシックパーク」の作者であることで有名だろう。しかし、ボクにTVドラマ「ER・緊急救急室」の製作総指揮者および脚本家としての存在だった。

USでは今秋から第15シーズンが放映されているようだが、日本で今年放映されているのは第13シーズン。日本では通常NHKが春から1年半遅れで放送していたのだが、今年は春に放送がなく、ファンのボクとしてはやきもきしていたところだった。「NHKは相変わらず韓国もの好きだから、昔いい思いをしたERを放送するのは、もう飽きたのかな?」と。しかし、9月から放送が開始され、ホッとしたところ。

「ER」は「Ⅷ」くらいから定期放送を観ているが、それ以前はビデオをレンタルショップで借りて約2年間で観まくった。各シーズン毎に20回以上の放送があり、「ERⅦ」までの約150本を毎週初めから見続けた。今となってはいい思い出だ。

「ER」の良さは何だろう?それはそのリアルさと、登場人物それぞれのドラマを追求するところだろう。13シーズン目を迎えながらも、相変わらずの内容の濃さには脱帽する。確かにかつてのマーク・グリーン、ジョージ・ベントン、キャロル・ハサウェイ、エリザベス・コーディ、ロバート・ロマノ、ダグラグ・ロスがいた頃の活気はないかもしれない。しかも、ジョン・カーターす去ってしまった。しかし、新しいキャストも面白いエピソードと演技力でなかなか面白い。

正直云って、「ER」シリーズを観てしまうと、日本の医療ドラマは薄っぺらに思えてならない。

ボクとしては、第4シーズンのアンナ・デル・アミコが好みだっがすぐ出なくなってしまった。ただこの役者(マリア・ベロ)さんは、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」や「サンキュー・スモーキング」などに出演していて、良かったよかった。

ボクが観た氏の関連した作品は、小説が映画化された「コンゴ」、「ディスクロージャー」、「ジュラシックパーク」、「ロストワールド・ジュラシックパークⅡ」、「ジュラシックパークⅢ」、そして脚本を担当した「ツイスター」を観ている。そして小説の「五つのカルテ」・・・「ER」の種本となったといわれる作品だが、持っているものの未読。

しかし、なんと云っても氏が「ER」を生んでくれたことに感謝したい。マイケル・クライトンさん、ありがとうございました。

http://www.crichton-official.com/

2008年11月11日 (火)

映画録 THE HUMAN STAIN/白いカラス '081111

どんな映画だか全然知らないまま、この映画を観た。「白いカラス」。重く深いテーマを静謐なトーンで描いた印象的な映画だった。人種、虐待、トラウマ、愛憎・・・。

誰が出るのも知らないから、映画全体であのアンソニー・ホプキンスが老獪な演技を見せつけ、緊張すら覚えた。そして、ゲイリー・シニーズ、エド・ハリスという“眉間の演技”で定評ある個性派俳優が硬質な演技で迫る、思わず佇まいを正しくしてしまう映画だった。そしてそして豪州が生んだ美しきバービー人形・ニコール・キッドマンが、きれいなだけじゃい、きっと共演した演技派たちにとんでもなく影響を受けちゃったって感じで、なんとも濃い芝居をする、重厚な映画であった。

決して楽しい映画じゃない。黒人の父母の間に生まれたのになぜか色白で白人と云っても信じられた主人公が、父の職業差別やフィアンセとの別れなど黒人差別に会う中で、彼はユダヤ人と偽って大学教授になり、大学の再建に貢献する。しかし、ある授業で口にした黒人差別を意味するスラングによって学校当局から追放され、しかもそれに衝撃を受けた妻を発作で失う。以前世話した後輩からも支援を受けらない失意の中、ある作家にこの不当差別と悲劇を告発する本を書けとかけあう。

ひとりになった主人公はある偶然から不思議な白人女と交渉を持つ。彼女は少女時代の継父からの性虐待と、ベトナム戦争帰還兵でPTSDを患って暴力を振るうようになった元夫から逃れてきていた。そして不慮の事故から自分の子供を火事で亡くしたことも、夫から「人殺し」と責められていた。そんな女は親しくなった主人公の元大学教授にも、一定以上の接触を許さない。セックスはしても、決してその男の家では朝を迎えない。彼に友人にも会い気もない。彼女は他人を信じきれなくなっているのだ。

映画は作家による回顧の形で進む。元大学教授と白人女のぎこちない付き合いに、復縁を迫りながら侮辱する元夫が絡み、その間、元大学教授の黒人差別に直面した高校、大学時代を謎解きのように挟み進み、物語は三人の悲しみを背負って悲劇に突き進んで行く。

奴隷時代を経て、差別感情が色濃く残る時代に学生時代を過ごした若者が、黒人であることを隠す選択をした人生を責めることができるだろうか?彼の口にしたスラングは、彼や彼の家族が受けた差別に比べれば、差別などと指弾されることではなかったのだろう。ボクシングの奨学金を得ようとすればコーチには「黒人」であることを伏せろと言われ、父親からは逆に黒人の誇りを持てと黒人大学に進めと強制される。彼の生きる世の中にその誇りが何の役に立ったがだろうか?勇気を持って紹介したフィアンセは、彼が黒人だったことで去ってゆく。古典学の教授になるためには彼は黒人であることを捨てなければならなかった。妻には死ぬまで黒人であることを明かさず、子供も作らず、母や兄弟たちとも会わず、ずっと生きて来たのだ。それなのに自分が黒人を差別したと云われるのか!彼を誰が責められるのか?

継父に性交渉を迫られた娘に逃げ場はあるのか?実の母はそんなことを信じないし、信じたくない母の気持ちを誰が責められるのか?出征した夫はPTSDを患い、暴力を繰り返す夫になって還って来た。不慮の火事により失った子供たちへの悲しみは、誰かのせいだろうか?逃げるだけの人生だった彼女に、心休まる場所はどこだろうか?

美しい妻を迎えて、国のためにと向かったベトナムは、戦争の大義などない無残な侵略であり負け戦だった。密林から迫るゲリラに脅え、現地民を意味もなく殺し続ける日々。帰還しても、神経は戻らない。ましてや子供たちを失った彼には、妻を責めることしかなかったのだ。そして逃げるように消えた妻をけなしながらも追い求めるしかできない彼は、単に悪人だろうか?

人はどこまで、裸になれるのだろう――。 』  ・・・チラシの宣伝コピー・・・

この物語に救いはない。そう、人生に救いなどそもそもないのかもしれない。では、何のために生きてゆくのだろう?元大学教授と女は、一緒に死んだことが唯一の救いだったかもしれない。元夫には追い求めた元妻が亡くなったことで平安が訪れたのかもしれない。

まるで冷蔵庫の中のように冷たい空気の中のようなアメリカの大地の中で、静かに恐れ憎み脅える人々が、死んで行く物語だ。芸達者たちがまるでホントにあった話のように演じることで観る者に迫る、まさに紛れもないアメリカの歴史の断章を描いた、そんな映画だった。静かで重く、冷たく深い。

2008年11月 8日 (土)

ジャーナリスト想 筑紫哲也 '081108

筑紫哲也氏が亡くなった。素朴に悲しいと思い、素直にお疲れ様でした、ありがとうございました、と告げたい。

筑紫哲也氏をはじめて知ったのは高校時代でかれこれ30年ほど前のことだ。高校の図書館で購読していた「朝日ジャーナル」に出逢ったのだった。たぶん筑紫氏は当時編集部員だったのではないだろうか?後に彼は同誌の編集長になるが、その頃ボクは大学生。相変わらず毎週毎週読み耽ったことを思い出す。当時の友人と同誌の記事について毎週討論していた記憶がある。

筑紫氏の訃報を伝えるTVニュースは、彼を「日本を代表するニュースキャスター」としており異存はないが、ボクにはやはり筑紫氏は朝日新聞の編集委員であり、朝日ジャーナルの記者だった。彼は'78年にはTVのニュース番組のキャスターになっていたようだが、中高校時代のボクはほとんどTVを観ず、また中日新聞を購読することが義務のような地域に育ったので、朝日新聞という新聞に出逢ったのも高校の図書館が初めてで、そこで初めて筑紫氏に会ったのだった。

その後、TBSの「NEWS23」のキャスターとして登場し、そして特に「多事争論」という動くコラムニスト“”として、親しむようになる。ボクの精神に影響を与えた報道番組としては、NHKの「特派員報告」、TBSの「報道特集」、TV朝日の「ニュースステーション」、そして「NEWS23」である。20代から30代の頃は、残業して帰宅するとだいたい22時台、興味のあるニュースは「ニュースステーション」で知り、「NEWS23」で確認し、筑紫氏のコメントで理解したように思い出す。

筑紫氏の尊敬するところは、TVで全国的な知名度が上がっても印刷メディアを忘れなかったことだ。氏は、「貧困なる精神」の本多勝一氏らが中心になって創刊した「週刊金曜日」の編集委員として、やはり彼はボクの前に雑誌関係者として登場した。「週刊金曜日」の編集委員として現役のまま亡くなったのは、たしか久野収氏以来ではないだろうか。

また、氏は文化についてのコメントも多かった。朝日ジャーナル時代の広範囲な文化人への取材記事の掲載、「NEWS23」での季節毎の映画評論、CM評論など、とても興味深かった。

ボクは記者やキャスターに影響されてなんかいないと思って来たけれど、多分ボクは筑紫氏の発言や表情に相当感化されていたかもしれない。でも、それをこれまで悔いたことはない。

筑紫氏がUSの民主・オバマ政権についてどんなコメントを寄せるのか聞きたかった。そして、相変わらず迷走を続ける世襲自民党政権が続く日本の政治に直球を投げて欲しかったし、次回の衆議院選挙では日本人に“国の在り方”を問いかけて欲しかった。

ヒトはいつか死ぬ。年齢の長短を問わず、どう生きたか、が自分の自分への評価だ。筑紫氏は自分の人生を納得していたと思う。素晴らしいジャーナリストとして生きたのではないか。ボクは筑紫氏が好きだった。さようなら、そしてありがとう。

2008年11月 5日 (水)

読書録 五十嵐仁「労働再規制」 '081105

ボクにはとても珍しいことだが、出版されたばかりの本を読んだ。五十嵐仁・著「労働再規制 -反転の構図を読みとく-(ちくま新書-'081010発行)」だ。

格差社会、貧困、ワーキングプア、勝ち組負け組、自己破産・・・聞いても口に出しても嫌な言葉をよく耳にるようになってどれくらいたつだろう。ボクが社会人になった20年以上前には、こんな言葉はあまり使われなかったと思う。確かにいつの時代にも貧困はあった。しかし、それにはそれなりの根拠があり、「努力を実行すること」で離脱出来ることと信じられていた。今はどうか?

確かに今も、人より努力すれば勉強すれば、そうならないかもしれない。しかし・・・一歩踏み外せば奈落の底に落ちて這い上がれない蟻地獄のような、勝者は自分の努力以外に他人を踏み台にしなければならないよう弱肉強食の時代になってはいないだろうか?

そもそもこの本は、格差や労働不安を引き起こした元凶を掘り起こすものではなく、行き過ぎた新自由主義=小泉・竹中路線のひずみへの反省から、労働行政に携わる厚生労働省や自民党の旧来のリベラル派のなかで、「労働市場の自由化」への反転が、あの狂乱の衆議院「郵政選挙(郵便局民営化)」で自民党が圧倒的な勝利を収めた直後から始まっていたことを、経済財政諮問会議や総合規制改革会議など、政府が作った数々の首相への諮問機関の動きの流れから読み解いている。

この本の論旨は、新自由主義による労働行政の混乱からの反転の流れを観るものだが、それとは離れてボクが注目したのは、現在の劣悪な労働環境=格差社会化の原因となった諮問機関にどんな考え方を持ったメンバーが集められ、そこで何が話し合われたのか?という点だった。郵政選挙で大勝を収めて「強行採決」を繰り返す前の、小泉・竹中が政権を握った段階から、新自由主義と云う妖怪が表面化していたことだった。

この本を読むと、新自由主義を掲げた小泉・竹中路線が、現在の労働構造=派遣、日雇い労働の拡大、過労死・ストレス離脱の増加、正規雇用の縮小、という労働者の権利が「規制緩和」によって剥奪されたこと、そしてそれがどんな意思決定によって成立したかがあぶり出してくる。

まずびっくりしたことは、派遣や日雇いの労働規制緩和を推し進めた総合規制改革会議のメンバーの中身だ。この厚生労働省ではなく、内閣府に設置された諮問機関は、開設当初の'01年1月、経済界10人、学者5人、その下に設けられた規制改革・民間開放推進会議は経済界8人、学者5人と、労働行政に不可避の労働者サイドの人間が全く入らないという、まさに労働者無視の会議であったということだ。

しかも総合規制改革会議の経済人の中には、奥谷れい子、佐々木かをり、川野栄子という、人材派遣業社の経営者が含まれていたことは、まさしく労働者をモノにしか見ない人選がなされていたことを証明している。こんな人たちが話し合ったのだから、こんな格差社会が来るのは決まっていたのだと思わざるを得ない。人材派遣会社のトップが話し合う目的は、働く者の安定ではなく、「会社が自由に社員を取り換えることが出来る法律」を作ることになるしかないだろう。

特に奥谷というヒトの発言として以下のような問答が記されている(五十嵐仁著「労働再規制」041ページから引用)。

Q.(奥谷)社長の考える労働行政、特に監督指導を行う労基署(労働基準監督署)の役割と云うのは。

A.はっきり言っていらない。労働省はいらない。労基署もいらない。要するに国が働き方をどうしろ、こうしろということ自体、ナンセンス。個別企業の労使関係の契約で決めてゆけばいいことですよ。

こんな差別人間が税金をもらって政府の政策や法律作成に関与していたのかと思うと、本当に腹立たしい。このヒトにはたぶん「まごころ」というものがないのだろう。軽々しく「労使関係の契約で決めればいい」と言い切れるこのヒトの頭の中は何が入っているのだろうか?使用者と労働者の間には常に「雇ってやる」と「雇ってもらう」という力関係関係が存在する。このヒトの周りには、使用者に対して「働いてやるよ」と大見えを切れる学力優秀でキャリアの豊富な、社会の極一部の人間しかいないのだろう。全体を見渡せないヒトは例え社会で成功したからと云って立派な生物ではない。ましてや狭い視野で政府に言い寄り政策に影響を与えるなどもってのほかだ。いろんなヒトがいて、いろんな仕事があり、それぞれの仕事の仕方がある・・・それを行政や社会が守らないでどうする?

この本を読んで、この奥谷、佐々木、川野の3人以外に、この格差社会を作り上げた元凶として、宮内義彦、太田弘子、飯島勲、牛尾治朗、椎名武雄、小林陽太郎、八代尚宏、八田達夫、福井秀夫らが挙げられる。もちろん、小泉・竹中のふたりが根源的な巨悪であることは決定的だ。働く者を踏みつけ、バカにする人々・・・最も悲しい人々たちだと思う。これらのメンバーが、企業社会は完全な競争であり、その競争についてこれる人間だけで構成されればいいのだ、そのために脱落者はイコール怠け者とレッテルを貼って良いのだ、と云う論理で議論をリードしたに違いない。さぞ楽しい会議だっただろう。

この本に接して、庶民の知らないうちで、法律や制度が一部の新自由主義者(=なんでも競争派)によって好き放題に捻じ曲げられていたことを知った。これはまさしく恐怖だ。

これまで労働関係の本はなかなかなじめなかったが、社会や家族、自分自身を守るためにも、労働関係の本に注意しなければならないと知ったところだ。

2008年11月 2日 (日)

映画録 「おくりびと」 '081102

近ごろ巷で評判の映画「おくりびと」を映画の日に夫婦で観た。

この映画を観て、「良いものに出逢えた」という感動以上に強く感じたのは、こんな大変な仕事があるのだなぁということと、死者を扱う仕事をさげすむヒトがいるんだなぁ、という感想だった。

ある意味この映画は「確信犯的な意図」で作られていると思う。それは“おくりびと=納棺師”という職業の持つ「孤高さ」と「神聖さ」にある。生きているヒトにとって“死”とは忌避すべきものだ。いつもは、自分や周囲にできるだけ“死”がやってこないことを密かに願うものだ。でも、生命あるものは必ず死ぬわけで、避けては通れない理であることも知っている。ヒトは長い歴史の中で「葬儀」を行うことで“死”を定型化してきた。周囲に死が到来したとき、悲しみの中でその定型化に身を委ねてきた。

一種の儀式化された納棺師の振る舞いは、死者を丁寧に扱うことで、遺族や親しいヒトたちの沈んだ心への癒しに変化して行く。あぁ、このヒトは何も知らない“死んだあのヒト”を丁寧に扱ってくれた、“死んだあのヒト”もうれしいだろう、と感じ、“死んだあのヒト”も安心して死んでゆけるだろう、と思うだろうし、その葬儀を行う自分の心を癒すのだろう。そして、いつか自分も死ぬ時にはこんなにやさしく丁寧に扱ってもらいたいものだ、と自分の死に思いを馳せるのではないだろうか?「確信犯的な意図」とは、ここだ。死を丁寧に扱うことで、ヒトは優しくなれるのかもしれない。そう云う意味で、この映画の狙いは大当たりだった。上映中、周囲に涙を拭くヒトを感じたし、ボクも涙腺がしきりに緩んだ。

もう一つの確信犯は、死を扱う生業に対す悪意だ。永い歴史の中で、ヒトは社会の中での仕事に尊卑の秤を作ってきた。教師や医師、宗教者らをよく「聖職」と呼ぶ(悪いことをしないヒト、という意味だろうが、ホントかな?)ことがあり、逆に封建時代には芸能に携わるものを「河原もの」と呼んだりした。そしてかつては、被差別住民を作り隔離して、家畜の皮革処理の作業や死者の扱いなどを押し付け、蔑む職業とした。残念だが、他人のしたがらない仕事ほど尊いのだと、わからないヒトは今も多い。この映画の中でも納棺師を「死体に触るヒト」として蔑む友人や一般庶民が登場し、そして妻までも「将来、子供が苛めにあう」とけなす。この映画の監督はあえてそんなエピソードをいくつも差し込む。ヒトを職業で差別する人たちは、納棺師を「ヒトの死を生活の糧にする“卑しい”仕事」と観ているのだろう。自分にとって“死”を回避したい事象であることは分かるが、それによって“死”にまつわる仕事までも差別する・・・これが愚かなことなのだと、この映画は伝えているのだろう。どんな仕事も尊いもので、どこでいくら稼ごうとも、ヒトが生きてゆくためにする仕事に尊卑の違いはない。

音楽の道に躓いた主人公はあきらめ気持で故郷に帰還し、「旅のお手伝い」というあいまいな文句に釣れられて納棺師の会社の門を叩く。そして初めて知るその仕事に興味を持ちながらも、周囲の反感や反対に会いながら戸惑う。しかし、彼は上司となった納棺師の立ち振る舞いに、仕事への興味と美意識を感じたのだろう。きっと、それまで目指していたチェリストを目指して苦労した頃の楽しみに似たものだったのではないか。

さらにこの映画を静かに盛り上げるのは、舞台となった山形の庄内地方、多分酒田市郊外の風景だ。古くからの町の佇まいと周囲の農村地帯の優しい自然、そしてそれを抱くようにそびえる山々。その全てが美しく厳しい。そんな風景の中でヒトびとは生まれ死んで行く。そしてその片隅には納棺師の大切な仕事がある。

「包丁人味平(※1.)」や「ブラックジャック(※2.)」の昔から、特定職業を紹介する作品は支持されやすい。この映画も納棺師という特異な職業を主人公にしたことがヒットの最初の要因だろう。そして映画を静かに丁寧に作ったこと、そして配役も概ね適切だったのではないだろうか。特に主演の本木雅弘の清潔感、納棺師・山崎勉の独特な雰囲気ある演技が素晴らしかった。また、吉行和子、余貴美子、笹野高史、杉本哲太の演技の自然さもよかった。そして、失踪して死んだ姿のみで登場した父親が先日亡くなった峰岸徹だったことが、何かを暗示していたように、ボクに「死」を身近に感じさせた。

キレイになって、
  逝ってらっしゃい。
  ・・・チラシの宣伝コピー・・・

映画にはいくつかの疑問もある。就職して間もないのにあんなに上手に納棺できるのか?、孤独死した時に現場で納棺するのか?特に死後時間が経ている場合は衛生状態が問題にならないか?、銭湯は老婆ひとりで運営できるものなのか?、チェロ購入ぼための大金を主人公はどう工面したのか?その借金を知らない妻ってなんだ?、また下世話だが、主人公の妻役の広末涼子の配役は適当だったのか?一緒に観た妻は「広末はきれいなお腹を出す場面で必要だったのかな?」と云っていたが、広末の演技力は他の役者たちと比べて「劣っていた」と感じたのは夫婦一致した見解だ。雑誌のモデルには最適かもしれないけど、この映画には演技力の無さが目立ってしまいましたね。監督の問題かもしれないけど。

墨子思想に共感をもっているボクにとって葬儀は、あくまでも質素であるべきものだ。しかし墨家のように、何もしない、野に晒す、と云うのは現実的には法律的にも無理である。死者を送るのは本当に死者と親しかった縁者であるべきで、盛大な葬儀など無駄だし、香典などの習慣も排すべきだろう。もっと云えば戒名や長々したお経すらも無駄ではないか。

映画「おくりびと」は、いろんな意味でなかなか素敵な映画だった。母親を見送った経験のある妻は、かなり満足していたようだ。ボクの元気な両親にもぜひ観てもらいたいと思った。

※1.:コックを主人公にした漫画。原作・牛次郎、作画・ビッグ錠、'73~'77年に週刊少年ジャンプ(集英社)で連載された。

※2.:医師を主人公にした手塚治虫の漫画。'73~'83年に週刊少年チャンピオン(秋田書店)で連載された。

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